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りそうのせかい改

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人生の設計図と、永遠のお別れ

最近、人生とは? を考える機会が増えました。


人生についてだとか、人間の存在意義についてだとかは、今までの人生の中で緯度となく繰り返し考えたり友人や同僚と議論したりしていて、最早ただの話しのネタのひとつのようなものなんですが。
そんな中でも私は4歳の時に最初に「人生とは」を考えた時から、変わっていっている結論と、ずっと変わらない根本とがあるなぁ、ということにいまの時点では気付きました。

そもそも、人生についての思いを馳せる瞬間は、大きくふたつあります。
ひとつは、死に直面したとき。自分や誰かの死であったり、死に纏わる物語の世界に触れた時や、世間を騒がせる死に関わるニュースなんか。これは、主に4歳~19歳のときに死を考えるきっかけになったことが多いきっかけでした。
もうひとつは、究極に幸せを感じた時。こんなしあわせを体験出来たならもう死んでもいいな、悔いはないな、みたいな感情に浸った時のことです。こっちは、20代の時に多く感じたきっかけです。

でも最近、30代になって変わって来たことは、そういう両極端の瞬間じゃなくても、結構、割といつでも死について、人生について考えているということです。
別の言い方をすれば、人生の終焉の仮定から、逆算して今の自分を見る様になったんですね。

定年の60歳までにやり残しの無い人生を送ろうと思えば、50歳までにはこれをしておかなければならない、40歳までにはこの地位を築いておかなければ、なら30代のいまやるべきことはこれではなくこっちだろ、という風に。



で、人生の設計図を先月の半ばから作り始めています。
いまやりたいこと、将来挑戦したいこと、いつか手を出したい分野など。
仕事もプライベートも家事・生活のことも健康に関することも社会貢献も、ぜんぶひっくるめて書き出して、優先順位と緊急度と難易度を書き出し、レベル分けしていくのです。
そうすると、人生の残り時間では全部が出来ないことが判ってきます。
だから、その中から諦めなければならないことと、いま手をつけていないけど本当にやらなければならないことを、現実的に選別していくのです。
そう、感情的に、ではなくて、現実的に処理していくのです。


そんなことを考えながら本屋に入った時に目に留まった『30代にしておきたい17のこと』という本を読みました。
もう夢を見れない、自分の限界が判ってしまった、そして人生の時間は確実に有限で、自分に出来ないことを知る時が来た。そんなリアルを突きつけるような世知辛い言葉が綴られています。
でもそれと同時に、まだ希望が残っていて挑戦できるチャンスのある最後の10年、とも書かれているのです。人生に分岐点になる最後の10年をあなたはどうすごすか?
そんな手厳しくも奮起させる言葉が載っている本でした。


で、突然、訃報が舞い込みました。
同じ職場でちょっと前まで一緒に働いていた方です。
長い闘病生活を送っている場合を除くと、大抵ひとの死は突然です。

私は幼いころから家庭環境と地域性的に、多くの葬儀に参列して来た経緯を持ちます。
小学校の頃なんか、毎年、年に1回は誰かの葬儀や死に直面していました。
でもあの頃は、誰かの死で感情が揺さぶられることはありませんでした。
それは、死を理解できていなかったからとかでは全くなくて、感情が欠落しているとかでもなくて、人生の経験が少ないゆえの想像力が欠けていたんだな、と今では思えます。
その想像力というのは、故人の人生的背景であったり、遺族の心理状況や今後の生活であったりを、式典の参列者の様子を目撃しただけで一瞬にして汲み取るような、想像力です。
それは、ある程度年齢がいかないと出来ないことでもあります。
だから、今なら判るのです。
いまなら、故人と生前関わりがそれほどなくっても、周りやその人のステイタスや一瞬関わった時の記憶で、それらすべてを自然に想像できるようになるのです。

不慮の事故、天災、突発的な事件、老衰、病気。
ひとの死は、いつどんな形で訪れるかは判りません。
だからこそ、未然に防ぐことの出来る最後のひとつである「病気」だけは、他の誰でもない自分自身が気を付けてあげないといけない。
そう、改めて思い知らされたようです。




先輩の、ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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