「まぁ、そうか。僕も付き合うつもりやったわけやないから、
それならええねん」
それならええねん。心の中で反芻する。それならええねん。
蛇目さんは憑きもんが降りたようなさっぱりした顔で喋りだす。
「あんたに恋愛感情なかったなら安心したわ。うちかてあの日、ジブンのことめっちゃ傷付けてしもた思って焦ったからな」
「・・・なんか重たい文章のメール来たから告白られたらどーしようか思って。それで断ったらまたギクシャクするん嫌やったし・・・」
「ま、付き合う付き合わへんは置いといて。お前がうちのこと好きなんは分かったから、それでええやん」
「何ですか、それ。えらい自信ですね。」
シロは嫌味のつもりで言った。けど、蛇目さんはにこにこ、いや、むしろ、ニヤニヤ笑っている。
何でこの人はへこたれないのだ。これだけ、心無い言葉をぶつけているというのに。
蛇目さんはそのニヤニヤの表情でシロに向かって言った。
「だって自分、今日メール見てすぐ家来たやん。うちと仲直りしたかったんやろ?」
自信に溢れた目で見つめられると、ノーとは言えなくなってしまった。
実際シロは、二週間以上の音信不通の間もやもやしていた。偶然テレビで映し出された蛇目さんの職場のレポート番組を見た。隣町の行きつけの店に行ったとき、彼女の通っていると言っていたジムを覗いたこともあった。忘れていたわけではなかった。いや。むしろ、ずっと気になっていた。
「まぁ、そーですね」
「それと同じくらい、うちもシロのことは好きやで」
「恋愛感情やなくて?」
「今はね。恋愛感情が芽生えたらまた言うわ。うちは何でも正直にぶちまけるタイプやから。最初からそうやったやろ?」
言われてみれば、そうだったかもしれない。
最初から、蛇目さんは自分の思ったことはなんでも口にしていた。でも、あの時、その言葉の意味をそのまま捉えられなくて、何かきっと裏にウラハラな感情を隠しているんだ、と思っていた。
「あれにも裏なんかなかったんや・・・。なんや、深読みして損した・・・」
一気に気が緩んだ。
でも笑う気になれないのは、恋という感情を向けられていなかったことが、案外ショックだったのかもしれない。我ながら自分勝手だな、と思う。自分だって、愛の告白を受けた場合の選択肢はお断りコースだった癖に。
「最近、昔の曲聴くのにハマってるんですよ。なんか聴きませんか?」
シロはiPodのイヤホンを抜いて、アルバムタイトルをめくった。
「じゃあオススメの曲聴かして。うち、ミュージックポット持ってるんよ」
言いながら蛇目さんは立ち上がり、棚の上のマグカップ型スピーカーに手を伸ばす。少し背伸びした拍子に、ふわりとしたミニスカートの裾から白っぽい布が視界を掠める。シロは、そんな些細なことですぐ反応してしまう自分の身体を恨んだ。
受け取ったスピーカーにiPodをセットする。少しざらついた音で、90年代のコアロックが流れ始める。
「白? 可愛い下着つけてますね」
邪な気持ちが過ぎったことなんて、彼女が振り返ったらどうせバレてしまうんだ。だったら隠したって無駄だとシロは開き直った。
「違うよー。ホラ」
蛇目さんは襟首をめくって見せた。少しだけ胸元がはだけて、水色に淡いピンクのレースがついたブラジャーが覗く。蛇目さんはそれを、天気の話でもするかのような自然な流れでしたのだから敵わない。手を伸ばせばすぐ届く距離に彼女はいるのに、いまは絶対に手に入らないものがある。
「コラ、」
伸ばした手はぴしゃりと払われてしまった。
「えぇやん。おっぱいだけやから。触らしてぇや」
「何でやねんっ。ハイ、て言うと思ったんか?!」
「いやぁ、今日は甘えさしてくれるかなぁ思ったから。じゃあなんか言うこと聞きますよ。僕にして欲しいことありませんか?」
「してほしいこと? なんでもいいの?」
「はい」
「じゃあ、セックスかな。」
また予想のはるか斜め上をいく回答に絶句してしまう。
「いや・・・それはあの・・今日は準備が万全じゃありませんので・・・」
「? 準備って何やねん。お前は女子か」
「ゴム持ってませんので!」
「あー、そういうことね。残念~」
本当に残念になんて思ってないくせに。
蛇目さんの言葉はぜんぶ真実だというけれど、ぜんぶが嘘くさい。からかわれているように思ってしまう。だって、声に感情がぜんぜん乗ってない気がするから。
「・・・喩えばもし、セックスしてしまったら、僕らはどうなるんですか。」
いま。本当にする気はないけれど、このひとと一緒にいたらいつかきっとしてしまう気がする。だって自分は中学生並みのエロガキな下半身の持ち主だし、彼女はそれを特に否定もしない。
「別に、どうもならんのじゃない? その行為自体に意味なんて持たせる必要はないやろ。身体を重ねた後に心情が変化することはあるかもしれんけど」
「心情の変化って、どう変化するんですか」
「そんなこと、その時になって見ぃひんと判らへんよ。変わらへんかもしれんし、あんたのこと好きになるかもしれんし」
「僕は、そうはなりませんよ。絶対」
恐かった。そうなったとき、いまの軽口叩ける関係が崩れてしまうのが。蛇目さんとの縁が、切れてしまうのが。
「そうしたら、その時にまた考えればええやん。お互いええ年した大人なんやから、そのへん分かってるなら、したらええと思うよ」
だから嫌なんですよ。その時、が来てしまったら、もう元には戻れなくなってしまうんでしょ。シロはそう言いたかったが、止めておいた。自分が、手を出さなければ済む話だ。たぶん、蛇目さんは自らシロを誘惑してくることは有り得ない。だって、恋人関係を結んでいないんだから。
ぶっ飛んだ意見を言う人だけれど、そういうところは妙に誠実を守るひとなのをシロは知っていた。
「・・・判りました。じゃあとりあえず、おっぱい触らしてくださいよ。僕の触っていいですから」
「ぜったい嫌。うちは別に触りたくないし」
「ちょっとだけ。先っちょだけでいいから」
「あんた、ただのスケベオヤジやな」
「・・・そんな僕が作る作品を、あなたは好きなんですよ」
出会ったとき、アーティスト・寅雄の作品を蛇目さんは好きだと言った。決して上手ではないけれど、あたしの心には響いたし、こういう毛色の作品は元々好きなジャンルなんだ、と言ってくれた。
蛇目さんは相変わらずケロっとした顔で答える。
「あたしの中で寅雄くんとシロは別人やから。ちゃんと分けて考えてるから大丈夫。」
「ほんならシロはただの変態やんっ!」
「そーいうことになるな」
「・・・あなたが、女性だったのが悪いんですよ」
「そんなこと、うちかてずっと思ってたわ。同性やったら、良かったのにね」
ミュージックマグからは最近エンドレスで聞いているロックが流れていた。
その唄は、時の流れの早さと短い時間の大切さを唄っていた。